150 研究系及び研究施設の現状
中 村 敏 和(助教授) (1998 年 6 月 1 日着任)
A -1)専門領域:物性物理学
A -2)研究課題:
a) 固体広幅 NMR および低温構造解析による T MT T F 系電荷秩序形成の起源解明 b) (T MT T F )2X の異常 g シフト:構造解析ならびに量子化学計算からのアプローチ c) (T MT T F )2X の局所電荷密度:放射光X線 ME M 解析
d) E S R によるヘキサベンゾコロネンナノチューブの電子物性研究 e) 光合成光化学系 II 反応中心の多周波 E S R 研究
f) パルスおよび高周波 E S R を用いたスピン科学研究の新しい展開
A -3)研究活動の概略と主な成果
a) 我々は一次元有機導体の電荷秩序状態とその起源を理解するために,おもに微視的な観点からT MT T F 系の電子状 態に関する研究を行ってきた。最近我々は,①種々のT MT T F 塩に対する重水素効果による電荷秩序転移温度の顕著 な上昇,②四面体アニオンを有する(T MT T F )2R eO4に対して常磁性相における電荷秩序転移およびアニオン配向秩 序化転移における電荷秩序の再配列の発見,③スピンパイエルス転移における電荷再秩序化の発見を報告した。 T MT T F 系では温度低下とともに一般に二量体が徐々に小さくなるが,電荷秩序相は有るしきい値をこえたところ が安定化するように見える。つまり,1/4占有バンドにおける電荷秩序形成と1/2占有バンドにおけるモット−ハバー ド絶縁相との競合で電子相が支配されるとも言える。四面体アニオン系のスピン一重項基底状態は,純電子的な電 荷秩序形成を凌駕するアニオンポテンシャルが,アニオン秩序化で形成し,電荷配列の再構築が起こるためと考え られる。これら一連の研究を通してT MT T F 系の電荷秩序形成(–o–O–o–O–)の主たる起源が長距離クーロン相互作 用によるものであり,系に寄らず普遍的なものであることを見いだした。
b) 上記のように一次元電子系(T MT T F )2X の電子状態については,かなり理解が進んできた。しかしながら,依然として 未解決な問題が存在する。たとえばいくつかのT MT T F 塩では,室温から20 K までの広い温度領域で異常なg値の振 る舞いが観測される。この問題を理解するために,単結晶E S R 測定およびX線結晶構造解析により分子構造と局所 スピン分布に関して考察を行った。PF6塩では,gテンソルの主値が300 K から20 K という広い温度領域で緩やかに シフトし,同時に,主軸がa軸を中心として回転する。この顕著なgテンソルの振る舞いの起源としては,まず分子・ 結晶構造の変化が容易に想像されるが,X線結晶構造解析からは,有意な分子構造変化は観測されない。そこで, T MT T F 分子に隣接しているカウンターアニオンの静電ポテンシャル効果について考察を行った。各温度でのX線 結晶構造解析から得られた原子座標を使用して,DF T -GIA O法に基づいたgテンソルの理論計算を行った。その結果, 実験から得られたgテンソルの主値,主軸の温度依存性を再現することができた。また,計算結果から T MT T F 分子
上のスピン密度分布を見積もったところ,T MT T F −アニオン間の距離が変化することにより,静電ポテンシャルが 変化を受け,4つの S 原子のうち,最もアニオンに近い S 原子上のスピン密度が増加することが分かった。この分子 内電荷分布の変化により,主軸の回転が生じたと考えられる。これは,T MT T F 系がとカウンターアニオンと近接し ておりかつドナー−アニオン間距離が顕著に変化していることに起因している。PF6のようなバルキーなカウンター
研究系及び研究施設の現状 151 イオン塩では,カウンターイオンの静電ポテンシャルがドナーの波動関数に摂動をもたらし,異常gシフトが起こっ たと考えられる。
c) 前述したようにT MT T F 塩のうち比較的大きなカウンターイオンを持つ系では温度依存する異常なgシフトが観測 される。このような異常は有機・無機固体にかかわらず非常に珍しいもので,その起源としてフロンティア軌道の変 形が強く示唆されている。このような分子内自由度に着目した研究はほとんどなされて無いが,次世代の機能性物 質開拓の上で重要であると考えている。また,研究が進んでいる電荷秩序形成問題に関しても,純電子的な–o–O–o–
O–型の電荷秩序に関してはX線構造解析による観測はなされていない。そこで,(TMTTF)2Xの電荷分布状態を分子
内レベルで明らかにするために,室温並びに低温でのK E K -PF 放射光実験施設によるX線測定の結果から構造解析 を行い,マキシマムエントロピー法(ME M)による局所電荷分布解析を行っている。現在,より厳密な解析を行うた めにソフトウエア等の整備も行っている。
d)ヘキサベンゾコロネン(HB C )ナノチューブは,13個のベンゼン環が融合したグラフェン構造をもつHB C 分子に種々 の化学修飾を施した誘導体を基本ユニットとしている。その基本ユニットが溶液中での自己組織化によりナノメー トルサイズの直径をもつチューブ状ポリマーとして成長する。HB C ナノチューブでは,カーボンナノチューブとは 異なり,個々のHB C のグラフェン面がチューブの円周方向に沿ってらせん状に積層している。このためグラフェン 面がチューブの中心軸方向を向いているカーボンナノチューブとは基本的に異なるπ電子共役系を構成しており, 新規機能性ポリマーナノチューブ開拓の観点から興味深い。東大工・E R A T O-S OR S T の相田グループによりヨウ素 などの化学酸化によるキャリアドーピングを行い高い電気伝導性を示すHB C ナノチューブが開発された。我々は, このπ電子共役系をもつHB C ナノチューブの電子状態を,E S R やNMR といった磁気共鳴測定法を用いて調べてい る。中性でのHB C ナノチューブでは不純物に起因すると思われる極弱いE S R 信号が観測されるだけであるが,ヨウ 素をドープすると大きなE SR 信号が観測される。強度やE SR 線幅は時間とともに増加し,約一ヶ月で飽和する。これ らの結果から観測しているE S R 信号は,ヨウ素ドープによるキャリアに起因すると考えられる。飽和状態での無配 向試料に対するE SR 線幅は約8 Gaussとヘテロ原子を含まない系としては非常に広く,遍歴性を示唆している。実際 E S R 線幅は温度低下とともに減少しており,E lliot 機構つまり伝導電子のフォノンによる緩和が支配的と考えられ る。ただし E S R 信号強度から見積もったスピン磁化率の温度依存性は,室温ではフラットであるが低温では C urie- W eiss的に増大し,キャリアが低温では局在していることを意味している。C urie定数から見積もったキャリア濃度 は 8% 程度でかなりのドーピングが進んでいる。さらに,キャリアドープに伴うg 値や線幅の解析を行い,電子状態 の解析を行っている。
e) 酸素発生光合成は,光化学系I(PSI)および光化学系II(PSII)とよばれる直列にはたらく二つの光化学反応系(電子伝 達系)の協調により機能している。最近,酸素発生を担うPS II反応中心複合体の3次元構造が明らかにされたが,酸 素発生中心マンガンクラスターなど小分子の構造や分子配向の精確な決定には至っていない。我々は,シアノバク テリア由来PS II反応中心を対象に,常磁性分子種の電子・分子構造を選択的かつ微視的に明らかにするために多周 波 E S R による研究を行っている。PS II では 4 核の Mn クラスターを中心に電子伝達系が存在し,光酸化されたスペ シャルペアは Y z 分子より電子が供給され,その Y z 分子は水分子から引き抜いた電子を Mnクラスターから受け取 る。Mnクラスターは,水分解−酸素発生過程において異なった中間酸化状態をとる。各Mn原子の酸化の程度に応じ て S 0,S 1,S 2,S 3,S 4 と呼ばれる。S = 1/2の基底状態をとる S2状態は各 Mn核の核スピン I = 5/2との超微細相互結合 により特徴的なマルチラインを示す。このS 2状態の精確なgテンソルを決定するためW-bandでの測定を行った。さ らに,過渡的常磁性種であるY zラジカルに関する知見を得るために,光照射後およびアニール後での多周波E SR 測
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定も行った。Y zラジカルの精確なgテンソルを決定するため,現在さらに単結晶試料を用いた測定が進行中である。 f) 分子研所有のパルスおよび高周波 E S R を用いて,高分解能E S R・高エネルギー特性を利用した複雑なスピン構造の
決定,多周波領域にわたるスピンダイナミクス計測といった種々な点から,スピン科学研究展開を行っている。これ までに高度に発展してきたE S R 分光手法を物質科学へ展開するために,①スピンをプローブとした分子構造・スピ ン間相互作用を決定し複雑分子系の機能性を探る,②分子集合体におけるスピンダイナミックス解析を行い,分子 内自由度に絡んだ協力現象の可能性,分子集合体ならではの新規物性機能発現を目指す。今後さらに,当該グループ だけでなく所外のE SR コミュニティーと連携を取り,パルス・高周波E SR の新たな可能性や研究展開を議論し,大学 共同利用機関である分子研からのスピン科学の情報発信を行っていく。
B -1) 学術論文
R. CHIBA, K. HIRAKI, T. TAKAHASHI, H. M. YAMAMOTO and T. NAKAMURA, “Extremely Slow Charge Fluctuations in the Metallic State of the Two-Dimensional Molecular Conductor θ-(BEDT-TTF)2RbZn(SCN)4,” Phys. Rev. Lett. 93, 216405 (4pages) (2004).
K. MAEDA, T. HARA and T. NAKAMURA, “ESR Study on Low-Dimensional Antiferromagnet α-(BEDT-TTF)2PF6 and
ζ-(BEDT-TTF)2PF6(THF),” Synth. Met. 152, 453–456 (2005).
K. NOMURA, K. ISHIMURA, N. MATSUNAGA, T. NAKAMURA, T. TAKAHASHI and G. SAITO, “Non-Linear Transport in the Incommensurate SDW Phase of (TMTTF)2Br under Pressure,” Synth. Met. 153, 433–436 (2005).
S. FUJIYAMA, M. TAKIGAWA, J. KIKUCHI, K. KODAMA, T. NAKAMURA, E. FUJIWARA, H. FUJIWARA, H. CHUI and H. KOBAYASHI, “Nuclear Spin-Lattice Relaxation in κ-(BETS)2FeBr4,” Synth. Met. 154, 253–256 (2005). F. NAD, P. MONCEAU, T. NAKAMURA and K. FURUKAWA, “The Effect of Deuteration on the Transition into a Charge Ordered State of (TMTTF)2X Salts,” J. Phys.: Condens. Matter 17, L399–L406 (2005).
K. FURUKAWA, T. HARA and T. NAKAMURA, “Deuteration Effect and Possible Origin of the Charge-Ordering Transition of (TMTTF)2X,” J. Phys. Soc. Jpn. 74, 3288–3294 (2005).
B -4) 招待講演
T. NAKAMURA, “ESR Investigation of Charge Ordering Phenomena in (TMTTF)2X,” ASIA-PACIFIC EPR/ESR SYMPOSIUM 2004 (APES’04), Bangalore (India), November 2004.
B -7) 学会および社会的活動 学協会役員、委員
日本物理学会 領域7世話人 (2000-2001). 日本物理学会 代議員 (2001-2003). 日本物理学会 名古屋支部委員 (2001- ).
日本化学会 実験化学講座編集委員会 委員 (2002- ). 電子スピンサイエンス学会 担当理事 (2004- ).
A sia-Pacific E PR /E S R S ociety S ecretary/T reasure (2004- ).
研究系及び研究施設の現状 153 学会誌編集委員
電子スピンサイエンス学会編集委員 (2003). 電子スピンサイエンス学会編集委員長 (2004-2005).
B -10)外部獲得資金
特定領域研究 , 「分子導体における電荷の遍歴性と局在性の研究」, 代表者 薬師久弥(中村敏和は準代表者で実質独 立)(2003年 -2007年).
基盤研究(C )(2), 「一次元有機導体の逐次 S D W 転移における電子状態の解明」, 中村敏和 (2001年 -2003年).
特定領域研究(B ), 「NMR による遍歴−局在複合スピン系の微視的研究:新電子相の開拓」, 中村敏和 (1999年 -2001年). 特定領域研究( A ) ( 2) 集積型金属錯体 , 「dmit系金属錯体の微視的研究: 磁気構造と電荷局在状態」, 中村敏和 ( 1999 年).
奨励研究(A ), 「有機導体におけるF ermi 液体 -W igner結晶転移の可能性」, 中村敏和 (1998年 -1999年).
特定領域研究(A )(2) 集積型金属錯体 , 「微視的手法によるdmit系金属錯体競合電子相の研究」, 中村敏和 (1998年).
C ) 研究活動の課題と展望
本グループでは,分子性固体の電子状態(磁性,導電性)を主に微視的な手法(E S R ,NMR )により明らかにしている。研究 グループの所有機器としては3台の固体広幅NMR 分光器が稼働している。有機導体に対しての研究をもとに強相関低次 元電子系の未解決な問題の解明を行うとともに,新規な分子性物質の新しい電子相・新機能を探索している。また,分子ス ケールナノサイエンスセンター所有の,多周波(X -,Q-,W -bands)・パルスE SRを用いた他に類を見ないE SR 分光測定を行 い,分子性導体など種々の機能性物質に対して電子状態やスピン構造に関する研究を行っている。E SR 測定を中心に多数 の協力研究・共同研究を受け入れ,最先端のE SR 測定研究の展開を全世界に発信している。生体関連物質に対してもE SR という強力な手法も行えるようになった。さらに,学術創成研究を契機として放射光での分子内精密電荷分布解析も進行中 である。今後は高圧下・極低温下といった極端条件での測定システム構築を行うとともに,物質科学における磁気共鳴研究 のあらたな展開を行っていく。